2008年08月29日

泡瀬干潟 東部海浜開発の真実  その4

第2章 プロジェクトの胎動

2.1 対等合併以外に道は無し

就任間もない中村哲二郎美里村長は、中央高校図書館で大山朝常コザ市長に問うた。「吸収合併のおつもりでしょうか?それとも、対等合併でしょうか?」このとき中村村長は、吸収合併との回答であれば、以降の話を断る腹積もりだった。しかし、大山市長は間髪入れず「対等合併だよ、中村君。」と答え、「市名も、沖縄市でも良い。」と続けた。人口6万9千人のコザ市と人口2万7千人の美里村の対等合併はここから始まった。

コザ市(越来村)と美里村は、元々同じ間切であるが、人口わずか1/3の美里村の吸収が当然と見られる中、なぜ、大山市長は、ここまで合併にこだわったのか。「コザは市の発展のために海を求め、美里は公共施設の整備を求めた。」と評されているが、大山市長は、かつて東海岸唯一の商工業都市として隆盛を誇った泡瀬の再現に、基地依存経済脱却との市の命運を賭けたものと考えられる。本土復帰前、山中貞則総務長官が来市の際には、要請項目の二つ目に自らの行政区でない「泡瀬工業港の開発」を掲げ、長官から「実現するよう最大の努力をする」との回答を得ていた。さらに、本土復帰後には、「国際文化観光都市宣言」の重要な前提条件として、海の玄関としての泡瀬港の建設実現が盛り込まれていた。

大山市長の明確なビジョンの下一枚岩であったコザ市に対し、美里村の中には強固に反対する部落も多かった。その中において、泡瀬人は熱烈な賛成派であった。合併が何を目指しているのか、かつてを知る泡瀬人は、大山市長のビジョンをよく理解していたのであろう。二度にわたる美里村議会での合併協議会設置に対する否定的動き、反対協議会の猛烈な反対運動の広がり、機動隊導入寸前にまで至った村議会の混迷を乗り越え、昭和49年4月1日に沖縄市が誕生した。大山市長の信念が、遂に、新市発足との成果を得るに至ったのである。この後、沖縄県においては、平成の大合併の時代に至るまで、市町村合併はなされていない。
  

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2008年08月28日

泡瀬干潟 東部海浜開発の真実  その3について

その3の中段に

「泡瀬には、戦前農耕に適さない表土を積み上げて得た共有地があった。昭和33年、この共有地に対し日本政府より軍用地見舞金七万円余りが支払われた。この見舞金は共有財産となるため、運用を泡瀬人全体で考える必要があった。」とあります。

泡瀬は島であったため、塩害がひどく、先人達は各戸に賦役を課して、表土を積み上げ、海砂を積みアダンを植え、防潮林を涵養した。その結果海岸沿いに細長い土地ができます。その土地を戦前「字泡瀬」で登記し共有地とした。泡瀬復興期成会の会員はこの防潮堤を作った人々の子孫である。

黄色い部分が共有地

前面に砂を採った後の溝があり、背後にアダンを植えた様子が写っている。昭和7年頃

防潮堤の完成を祝っての写真  このような作業をおそらく1768年の移住以来繰り返すことによって、暮らしを守ってきた歴史がある。



  

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2008年08月28日

泡瀬干潟 東部海浜開発の真実  その3

1.3 帰る土地を求めて

泡瀬に戻ることが出来なかった泡瀬人は、泡瀬への移住計画を策定し、その推進母体として「泡瀬復興期成会」を立ち上げた。昭和23年のことである。当時の資料では、その熱い想いが読み取れる-「誰か泡瀬の人で、泡瀬へ行きたくない人がいましょうか。誰か戦前以上の泡瀬の復興を望まない人がいましょうか。」「ここで移動の一歩を踏み出さなければ百年の悔いを残さないとも限りません。」「要は如何にして、早く移動するか、そして、平和な文化町泡瀬を実現させるかであります。」しかし、移動計画は実現しなかった。昭和24年のグロリア台風で、戦火により被災した護岸が決壊して大きな被害を受けたことに加え、昭和25年には、一部開放された土地が再度軍用地として接収されてしまったからである。またも、帰る土地は得られなかった。

泡瀬には、戦前農耕に適さない表土を積み上げて得た共有地があった。昭和33年、この共有地に対し日本政府より軍用地見舞金七万円余りが支払われた。この見舞金は共有財産となるため、運用を泡瀬人全体で考える必要があった。その役割を担うため、既に移住計画の活動をした泡瀬復興期成会を、改めて任意団体として正式に結成した。その事業目標としては、泡瀬への移住と復興促進を目的とした泡瀬内海埋立計画が掲げられた。昭和34年10月の米国民政長官への要請では、「沖縄全体で泡瀬が、最も悲惨な状態」「一日も早く、安住の土地と生活基盤を」とされている。その後、米国民政府への何度もの折衝が実を結び、ついに昭和35年9月より着工された。

着工後も苦難の道は続いた。泡瀬人は、埋立と港の開発の両立をさせるため、港の海底を掘った土砂による埋立を求めていたが、当初それが実現せず、デモにまで至った。「われわれに港と宅地を同時に与えよ」とのプラカードを掲げ二百余名が政府に押しかけた。結局、約半分は海底からの土砂により埋立てられ、昭和44年には工事が完成した。新たな土地の払い下げ業務は、美里村より復興期成会に委託された。復興期成会は、多くの泡瀬人に土地を割り当てるため、当初予定より区画数を1.5倍にして各戸の坪数を抑えたが、それでも絶対数が不足しており、割り当ては警察官立会いの下抽選で行われた。泡瀬人の悲願が全て達成されたわけではなかったが、戦後四半世紀を経て、いくばくかの想いを遂げることが出来た。しかし、未だ帰ることが出来ない人々が多いまま、一方で内陸部のコザに基地を中心とした経済圏が形成され、泡瀬における中部圏唯一の隆盛の復活は遠くなるばかりであった。
  

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2008年08月28日

泡瀬干潟 東部海浜開発の真実  その2

1.2 戦火を逃れて

太平洋戦争末期、泡瀬を含む美里村では、那覇が焦土と化した昭和19年「十・十空襲」から翌20年4月の米軍上陸の前後に疎開が始まった。上空を米軍機が、陸上を砲銃弾が飛び交う中での避難であった。疎開生活では、北部では食糧とマラリア、南部では砲弾と飢えに苦しめられた。終戦までに、泡瀬関係者の沖縄戦における戦死・戦没者は計585人、その中には対馬丸遭難者155人(学童53人)が含まれている。

終戦後、具志川村(現うるま市)において占領下に置かれた美里村民は、昭和21年1月に美里村桃原の米軍キャンプ跡地に移動させられた。狭い幕舎に2~3家族が同居する窮屈な生活であった。米軍は、4月より旧部落を順次解放したため、村民は次々と元の居住地に移動していった。12月には、村役場も旧敷地に移っていった。しかし、泡瀬の人々だけは旧部落に戻ることが出来ず、キャンプ跡地に取り残されることとなった。泡瀬の旧部落が軍用地として接収されていたからである。ちょうどその頃、琉球民政府が住宅復興策を進めており、この住宅資材の無償配給を受けるためには居住地が決まっている必要があった。居住地に戻れない泡瀬人達には、「なぜ我々だけが、村もなく、家もない状態にならなければならないのか。」との強い怒りと焦りがあった。

米軍は、泡瀬全域及びその周辺一体を海軍と陸軍の通信基地としたため、軍用地解放は受け入れられなかった。そのため、泡瀬人は美里村内の桃原区・古謝区に受け入れを要請し、何度となく折衝した。元来泡瀬より小さいこれらの区に、泡瀬人の居住区を設定するのは無理な話ではあったが、両区の住民は最終的に受け入れに同意した。ここに、泡瀬人の両区民への大きな感謝とともに、自らの帰る土地を求め、その再興を願う強く、そして一致した想いが生まれたのである。


終戦は8月15日 沖縄での地上戦は6月23日に終っている。」
  

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2008年08月27日

泡瀬干潟 東部海浜開発の真実  その1

「東部海浜開発の真実」をシリーズで紹介する
今回は その1

東部海浜開発の真実


~開発と環境を両立させたプロジェクト~


目 次


プロローグ

第1章 泡瀬アイデンティティーの形成
1.1 泡瀬の始まり-塩田-
1.2 戦火を逃れて
1.3 帰る土地を求めて

第2章 プロジェクトの胎動
2.1 対等合併以外に道は無し
2.2 泡瀬港開発の進展と軍用地の一部開放
2.3 軍用跡地の観光振興構想
2.4 市としての決定

第3章 環境保全なくして開発無し
3.1 泡瀬の未来を決めるのは誰か?
3.2 市長への直談判
3.3 環境保全は我々の権利
3.4 ついに断念

第4章 念ずれば叶う
4.1 地元有志の集まり
4.2 夢を実現する方法
4.3 正式決定

第5章 議論再び
5.1 国の参画と公共事業不要論
5.2 干潟保全の動きの渦中に
5.3 泡瀬の干潟・海を取り巻く現実
5.4 解決策は我々の手の中にあるのではないか


プロローグ
「あなたは、開発を採りますか?それとも、環境を採りますか?」
現在の開発計画の多くには、この問いが突きつけられる。そして、前者の答えに対しては、「時代遅れ」であり「環境破壊」であるとのレッテルが貼られる。特に、この点において、マスコミの論調は顕著に思える。しかし、本当に二者択一なのだろうか。我々には、「YES」か「NO」かの答えしか導き出すことが出来ないのだろうか。
沖縄市で現在進行中の東部海浜開発。この開発も、例に漏れず、というよりむしろ沖縄県の中で、辺野古埋立てや新石垣空港とともに、代表例として上記の問いが突きつけられている。
残念なことにあまり知られていないが、この東部海浜開発の計画は、地元沖縄市における構想から現地着工まで約30年、環境と開発の両立について多くの議論を重ね、反対意見を戦わせ、その上で練り上げられてきたものである。
この物語は開発と環境の調和を目指し、地元において進められてきた計画決定までの合意形成についての史実である。この物語を読むことにより、一人でも多くの方が、東部海浜開発計画の真実を、そして開発と環境の両立が実現可能であることを知っていただければ幸いである。

第1章 泡瀬アイデンティティーの形成

1.1 泡瀬の始まり-塩田-

泡瀬の歴史は、高江洲義正の先見の明により始まった。

元禄年間の琉球国繪図(幕府撰元禄国絵図)に登場する「あせ嶋」が、泡瀬の歴史書における最初の記述と言われている。当時「あせ嶋」は海に突出した無人の小島で、自然に形成された砂洲と広い干潟に囲まれていた。


この地には1746年15人の士族が移り塩焚きを行ったが、台風と高潮で住むことが出来なかったとの記録がある。高江洲義正翁は1768年、読谷間切在番を終え役職退官した高江洲翁は、既に齢六十五を超えていたが、子孫の将来の発展を確信し、東の海に浮かぶ白砂と深緑の泡瀬小島に、一家を挙げて移住した。そして、原野を開墾して食料を得つつ、干潟に着目して製塩を始めた。功成り名を挙げてからの移住に不安はあったかも知れない。しかし、頑健な体にフロンティアスピリッツ、地の利を活かした開拓は、琉球王府が士族に転職を奨励する時代展開と相まって、明治時代には「アーシマース(泡瀬塩)」を産する沖縄一の製塩の地として成長を遂げた。

港では山原船が焚き木や農産物を集積して行き来し、部落内には大小様々の商店が軒を連ねていた。所々にある砂糖樽製造所からは威勢の良い槌音が響き渡り、軽便馬車や乗合バスが那覇と結んでいた。そして、大干潟には多くの製塩業者が炎天下で働き、煙突からは盛んに煙が吐かれていた-高江洲氏の開拓から百年余りを経た明治~昭和初期時代、泡瀬は沖縄中部圏東部地域において、唯一の商工業地として隆盛を極めた。同時に、海とのかかわりが泡瀬史となり、泡瀬人が海にふるさとを求めるアイデンティティーが形成されていた。



  

Posted by チョウケン at 17:44Comments(0)TrackBack(0)東部海浜

2008年08月25日

座り込み解除(沖縄市東部海浜開発事業)

座り込み成功集会・・・・市民の賛同は得られず集会参加者は30名程度で
ほとんどが反対運動の活動家や動員されたと見られる者が占め、集会としては失敗。
18時  工事関係者やマスコミが見守る中  なかなか集会は始まらない

18時38分

19時02分

19時37分

17時44分

19時58分  撤去中


  

Posted by チョウケン at 21:59Comments(1)TrackBack(0)東部海浜

2008年08月25日

沖縄全島エイサーまつり

第53回 沖縄全島エイサーまつりが8月22日~24日行われた。
25日の琉球国祭り太鼓を中心にその様子を紹介する。
婦人連合会

室川青年会

平敷屋青年会

楚辺青年会

千原エイサー保存会



琉球国祭り太鼓








  

Posted by チョウケン at 10:20Comments(0)TrackBack(0)沖縄市

2008年08月20日

知花花織事業協同組合創立記念祝賀会

8月20日知花花織事業協同組合発足のお祝いが知花公民館で行われた。
「知花花織研究会」が「知花花織事業協同組合」に発展し、沖縄市の工芸による街づくりに貢献しようとするものである。
組合設立発起人代表伊波順子氏
県職員時代に研究会の立ち上げにかかわり、今回の組合設立と小橋川順市氏の貢献は大きい

来賓祝辞 東門市長 喜友名議長 沖縄県中小企業団体中央会 中田会長
乾杯は池原氏


地元地花自治会をはじめ大勢の方々が組合の発足を祝った。

中でも沖縄市の商工振興課の職員は総動員で祝った。


                                                 

  

Posted by チョウケン at 21:34Comments(0)TrackBack(0)沖縄市

2008年08月20日

保育懇談会

8月19日(10:00~12:00)
沖縄市議会の文教民生委員会と沖縄市私立(認可)保育園連盟との懇談会が行われた。




保育園経営についての説明の後意見の交換を行った。
待機児童 看護師配置 認可保育園は増加したにもかかわらず市の予算の伸びが無い 市立保育園と私立保育園の職員給与の差は市立が高いのではなく私立が低い その他いろいろ、2時間は瞬く間に過ぎた。
  

Posted by チョウケン at 09:43Comments(0)TrackBack(0)議会

2008年08月17日

ギョボクの花 蛾の幼虫との戦い 4 (了)

季節はずれのギョボクの花 一房だけ咲いたものの・・・・・・・・
8月5日
最後の子房が落ち実は結びませんでした。
8月13日
8月13日
8月13日
蛾の発生は無かったものの、実を結ばない   要因は・・・・ 
   自家受粉はしない?  めしべとおしべの熟度に時間差がある? 
  他、何らかの要因で・・・・・・・????????
      今年も残念です。来年に期待したい。
  

Posted by チョウケン at 10:03Comments(0)TrackBack(0)

2008年08月14日

ウンケー(旧盆7月13日)

今年は、旧暦7月と新暦8月の曜日が同じである。
今日、13日はウンケーにあたる。
エイサーはウークイの日に行うのが、慣わしであったと思うが?
近年では時間的な制約もあり、そのようなことにとらわれず行っている。
今年も青年会のエイサーがやってきた。



太鼓の音は人々を惹きつける。
  

Posted by チョウケン at 00:38Comments(0)TrackBack(0)年間行事

2008年08月13日

モンスター

本ブログ7月27日のモンスターは羽化しました。

羽化していることに気がつかず1頭は羽が痛んでいた。8月13日放蝶
  

Posted by チョウケン at 23:58Comments(0)TrackBack(0)チョウ

2008年08月10日

納涼夏まつり

泡瀬第三自治会の「納涼夏まつり」が8月9日行われた。
こどもエイサー
 
ジャザサイズ
 
 
三味線演奏
 
国分琉舞研究所


泡瀬第三 睦会

睦会の先導で全員で 盆踊り


まつりは最高潮


愛聖クリニック


こどもチョンダラー

ビンゴゲーム

        1番大当たり 自転車


シメは青年会のエイサー   中にちびっ子が2人  これがとってもじょうず!!



                                     了
  

Posted by チョウケン at 15:39Comments(0)TrackBack(0)自治会

2008年08月10日

嘉手川繁夫の世界   シンポジュウムⅡ

 8月9日午後2時 県立博物館・美術館3回行動でシンポジュウムが行われた。
   

  工芸研究家   本日の“コーディネーター”

  画家

  映画監督





映画の1コマ


嘉手川氏はマブイを加え、高嶺氏はマブイを減じた!   ・・・??

  マブイに惑わされた  2時間でした。
  

Posted by チョウケン at 11:24Comments(0)TrackBack(0)泡瀬復興期成会

2008年08月07日

「沖縄IT津梁パーク」説明会

中城湾港新港地区にできる津梁パークの説明会が今日(8月7日)行われた。

沖縄県観光商工部情報産業振興課長より説明があり、事業がかなり具体的に進行していることが分かった。








沖縄県情報産業協会 会長 南郷辰洋氏.が「沖縄ソフトウェア・オフショアコア会社(仮称)」の役割を説明した。



  

Posted by チョウケン at 17:48Comments(0)TrackBack(0)東部海浜

2008年08月06日

海の日イベント実行委員会の反省会

昨夜(8月5日)7月20日に行われた  マリンシティ泡瀬[実感!体感!海遊び」 反省会があった。

              携帯電話での撮影のためかなり画質が悪い

反省点

  実行委員会を立ち上げるのが遅かった。
 そのため十分な周知活動を行うことができなかった。

  シャワーの水を不足させると困るので、当初ケチった。
 来年は水を十分に準備したい。

  子供たちのすばらしい写真が撮れた。

  当日所用で参加することができず残念、
 旗振りがいないため参加(私の所属する会員)が少なかったのでは。

  等々・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・反省点多し!!!

  次回に向けて全員が意欲を示した。

  イベント参加者は約470名  (嘉手川繁夫展鑑賞のバスツアー3台109名も訪れた。)
 
  私はひとつの提案を行った。
   2月から3月ごろの寒いときに「日光浴」のイベントをやってみよう。

 
 泡瀬復興期成会の泡瀬支部の嘉手川繁夫展鑑賞のバスツアー  7月20日 午後4時
    車中で、美ら島工事現場視察。津堅島、勝連半島、県総合運動公園を展望
   
  
    工事現場に降り立っての工事状況説明
  


 この実行委員会は「沖縄市東部海浜リゾート開発推進協議会」を構成する団体の中から実行委員会を立ち上げた。
     「海の日イベント実行委員会」委員長 當間文博

 

  

Posted by チョウケン at 09:13Comments(0)TrackBack(0)東部海浜

2008年08月05日

中城湾港泡瀬地区の入り口封鎖

8月4日 市の道路管理上の退去要求に文書を要求


8月5日 お昼ごろ文書を渡したとの事

8月5日午後2時 工事車両の資材搬入を阻止する守る会
  

Posted by チョウケン at 18:07Comments(0)TrackBack(0)東部海浜

2008年08月04日

ギョボクの花 蛾の幼虫との戦い 3

ギョボクの実を実らせたいと蛾の幼虫と戦ってきたが完敗でした。
ところで、8月4日現在、ギョボクの花が一房咲いている。


 昨年も蛾の発生が終わり季節はずれの花から実がついたが思わぬアクシデントで実を失った。
 蛾の幼虫がいなければ実がつく可能性は高い。期待できそうだ。

  

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2008年08月03日

針生一郎講演会

テーマ 「戦後美術の光と影」   嘉手川繁夫展関連イベント



講演はスライドを用いて作品や作者の様々な事柄を交えての講演で1時間半の予定が、2時間半にも及んだ。

大幅な時間超過もまったく苦にならない講演会であった。
針生一郎先生 
  

Posted by チョウケン at 17:54Comments(0)TrackBack(0)泡瀬復興期成会

2008年08月02日

基地に関する調査特別委員会の視察 その2(横須賀市)

神奈川県横須賀市(31日)


担当職員から説明を受ける。

横須賀市の基地行政は次の覚書に象徴される。




横須賀市が横須賀基地司令官と直接覚書を交わしている。
(原子力軍艦を含む)の文言の調整に苦労したとの事である。

*われわれは、このような覚書を嘉手納基地と交わすことが可能なのだろうか?

横須賀市街の様子
排水溝のふた

三笠公園




夜の横須賀



議場にて
  

Posted by チョウケン at 14:48Comments(0)TrackBack(0)議会